大洲城は4層4階で大きな天守閣!歴史は?肱川の名前の由来は?
こんにちは〜!
カワタツ( @TKkidd_mbht )です!
2012年6月に愛媛県南部を旅行してました!
その時、
大洲城
に行った事を記事にします!
大洲城、
2004年に建てられたピカピカの城!
しかし4層4階の大きくて立派な城です!
愛媛県を旅行する時、
宇和島城と一緒に城巡りをするなど、
南予観光の下調べに読んで見てください!
伊予大洲駅から大洲城への、
アクセス・交通手段については、
上の記事で詳しく説明してます!
大洲城の天守閣は?
タクシーで大洲城へ辿り着きました。
途中の道が結構ややこしくて、
タクシー使って良かったかも😅
「綺麗過ぎる」とも感じましたが、
立派な大洲城天守閣。
2004年に復元された物だそうで、
まだ新しい。ピカピカ。
2021年3月現在、
今行くと良い具合に汚れて、
味のある天守閣になってるのでは?
4層4階の立派な天守閣!
この大きな天守閣、
予讃線で伊予大洲ー西大洲間を通るときも、
よく見えます。
立派です。
内部はこんな感じ。
大洲城の模型です。
天守閣の他にも、
台所櫓
高欄櫓(こうらんやぐら)
苧綿櫓(おわたやぐら)
三の丸南隅櫓
の4つの櫓が残ってるそうです。
(なぜ撮ってない😅)
坂本龍馬の絵。
「なぜ愛媛県なのに龍馬?」
と思う方多いでしょう?
龍馬が脱藩する時に大洲を通ったから
らしいです。
茂本ヒデキチさんという人の絵で、
前に松山に行った時、
茂本ヒデキチさんの絵の
クリアファイルを買いました。
最上階から城の南側の展望。
手前に広場が広く取ってあり、
その向こうに大洲の町が広がっています。
「頭上ちょんまげにご注意くだされ!」
この表現、良いですね☺️
大洲城の歴史は?
ここで大洲城の歴史について書いてみます。
大洲城は昔は「大津城」という名前で、
鎌倉時代、
守護として入国した宇都宮豊房が築城。
その後長宗我部元親が支配した後、
小早川隆景、戸田勝隆が入り、
藤堂高虎により近世城郭として、
整備されました。
藤堂高虎といえば築城の名手。
同じ愛媛県の今治城や、
三重県の伊賀上野城、
この次の日に行った、
宇和島城も、
藤堂高虎築城ですね。
その後、
大洲に入った脇坂安治により、
「大洲」の名が付けられ、
さらにその後は加藤貞泰の子孫により、
統治されます。
肱川の名前の由来は?
大洲で印象深い話があります。
大洲城の横を、
肱川(ひじかわ)という川が流れてます。
昔、川に面した高石垣の工事が難航し、
人柱を立てることが決まり、
くじで「おひじ」という若い女性が、
人柱に決まりました。
おひじを生き埋めにして人柱が立てられ、
この後工事が完成し、
おひじの名から、
「肱川」(ひじかわ)という名が、
付けられた。
おひじの鎮魂のためでしょうか。
悲しい話ですが印象的。
神頼みする他ないか時代ですが、
人柱で難航した工事が進むと考えるのは、
理解しかねますね。
とマジレスで疑問を抱くのはダメ?(笑)
しかし、逸話、
どこから拾ってきたんだったっけな?😅
引用元を書きたいです😅
このサイトにより詳しい内容が書いてありました。
貼っておきます。
さて、この後は同じ大洲の、
臥龍山荘に行きます。
苔の緑がとても素敵な所でした。
まとめ
- 大洲城天守閣は2004年に建てられたピカピカの天守閣。4層4階で大きい。
- 大洲城は元々「大津城」と呼ばれてた。藤堂高虎により近世城郭として整備され、脇坂安治により「大洲」の名が付けられた。
- 肱川の名前は人柱にされた「おひじ」という娘の名前から付けられたという悲しい話がある
この旅、現存天守の宇和島城に行くのが、
一番大事な目的でした。
ところが途中で寄ってみた大洲で、
ピカピカで立派な天守閣に思わず出会えて、
ビックリしました。
大洲城行ってみて欲しいです!
それでは今日はこの辺で失礼します!
最後まで読んでくれて、
ありがとうございます!
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