明石城の坤櫓は公開されてる?2023年は?天守閣がない理由は?誰の城?
こんにちは〜!
カワタツ( @TKkidd_mbht )です!
🤡「どーも!
デルピエロです!」
この記事で、
明石城のアクセスや駐車場について、
書いたんだけど、
🤡「今日は明石城の城内に関しての、
記事だよね」
この明石城の写真を見て欲しいんだけど、
他の城にはある物がないよね?
🤡「ん?
普通なら真ん中辺りに、
天守閣がドーンと建てられてるよね」
そう、じゃあ、
明石城にはなぜ天守閣がないのか?
分かる?
🤡「ん?
壊されちゃったとか?」
その答えをこの記事で説明していきます!
さらに、
明石城の城主は誰?
坤櫓は公開されてる?
という事も説明します〜!
明石城の城主は誰?歴史は?
🤡「ところで明石城、
城主は誰だったの?
有名な武将?
明石城は今から400年前の、
元和5年(1619年)に、
初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が、
外様大名の多い西国への備えとして、
徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ、
築城されました。
https://www.akashijo.jp
🤡「小笠原忠政って人が建てたのか。
西国への備えとして、
明石城は建てられたんだね」
徳川家康は島津や毛利など、
西国の大大名を抑えるために、
まず姫路城を作った。
しかし、
「姫路と大阪の間に、
あと2つ位大きな城を作っておかないと、
大坂への防備として安心できない」
と考え、
明石と尼崎の2ヶ所に、
城が作られたそうです。
🤡「確かに薩摩や長州から、
大坂へ攻め込むまで、
姫路・明石・尼崎と、
3つも大きな城を、
落とさないといけないのなら、
計画の段階で攻める気がなくなる、
固い防御なのかも」
明石藩は小笠原忠政に始まり、
戸田松平家、大久保家、
藤井松平家、
本多家と支配大名が入れ替わり、
1682年に越前大野の松平直明が入り、
そのまま廃藩置県まで続いたそうです。
🤡「松平直明の子孫が、
200年位の間ずっと、
明石藩を継いだんだな」
江戸時代から明治時代になり、
四民平等や廃刀令の影響で、
明石の街に武士がいなくなりました。
🤡「仕事がないから、
大阪とか大きな街に行ったのかな?」
あるいは田舎に引っ込んで、
農業を始めたとか?
それはともかく明石には、
誰も住んでない武家屋敷が、
たくさん出来た。
🤡「街が空洞化したんだな」
しかし、これは、
明治時代の明石市にとって、
好都合でした。
🤡「何で?」
「武家屋敷があった土地に
鉄道を通せる!」
となったみたい。
🤡「なるほど。
街の真ん中に鉄道を通すのって、
土地の確保が難しいもんな。
ましてや明石の様な港町は、
平地が少ない」
という訳で、
武家屋敷の跡に鉄道が通ったそうです。
また、
明石の町割りは宮本武蔵がやった
という話も、
あるみたいですね。
🤡「宮本武蔵?
剣豪なのに町割り設計もできるの?」
良く分からないんだけど、
姫路の本多忠政が、
小笠原忠真の義父にあたり、
武蔵を紹介してもらったみたいだよ。
🤡「コネか〜」
明石城に天守閣がない理由は?
🤡「さて、そろそろ、
明石城に天守閣がない理由を、
教えてもらって良いかな?」
あくまで一説なんだけど、
1.中津城(大分県中津市)から、
天守を移築する計画があった。
2.築城に神経を尖らせる幕府に配慮した。
3.大砲の技術が進み、
標的となる建物を建てる必要がなかった
https://www.sankei.com/article/20180317-5AXRT7XTJNJCDH6UVDRCW6TPMI/
🤡「2と3が最もに思えるな〜」
2だけど、
幕府は少しでも幕府に反逆する藩があれば、
取り潰してた。
それで城を建てても、
天守閣を建てない城が多いんだよね。
🤡「3も最もだよな。
明石城は海がすぐ近くだから、
船から大砲で城を狙われる事を、
想定してたんじゃないかな?」
引用以降は、
あくまで僕の想像です😅
2023年は?明石城の坤櫓は公開されてる?江戸時代の櫓が現存?
さて明石城の、
坤櫓(ひつじさるやぐら)まで、
登って行く所を書きたいと思います。
明石城を正面から見て左側にある、
坤櫓(ひつじさるやぐら)の左側から、
城の上の方へ登る事ができます。
🤡「入り口はここだけ?」
いや、
この写真の明石城の、
真ん中辺りにも、
登り降りできる階段があるし、
右側の櫓・巽(たつみ)櫓の右側からも、
明石城の上の方へ、
登り降りする事ができるよ。
🤡「階段が色々な所にあるんだな」
これは先程の明石城を正面から見て、
左側、西側の階段。
🤡「割と緩やかそう」
櫓のある位置まで登ってきました。
ちなみにこの時、
2019年7月で、
とても暑かった😅
🤡「夏真っ盛りか。
綺麗に写真が撮れてるもんなあ」
東側の櫓、巽櫓(たつみやぐら)。
🤡「明石の街が見下ろせる感じか」
瀬戸内海も見えるよ!
明石海峡大橋も見えます!
海抜20mの位置にあり、
この位置から瀬戸内海を通る船を
監視してたんじゃないですかね?🤔
🤡「これなら西国街道(山陽道)も、
監視できたよね」
こちらは逆サイドの坤櫓。
明石城坤櫓と巽櫓、
全国に12基しかない、
現存する3重の櫓
らしいです。
🤡「という事は、
どちらも江戸時代のものか!
中には入れないの?」
最初、「入れないのかな?」
と思って、
他の場所を一通り見て周って、
「もう見る所はないかな?」
と思って、
「明石駅の方へ降りよう」
と思ったんだけど、
🤡「けど?」
その時、明石城の職員さんが、
下から登ってきて、
「今から坤櫓開けますよ〜。
中見れますよ〜!」
と😃✨
🤡「おお!
やったね!
しかし、坤櫓は、
常に公開してるわけじゃないんだね?」
2019年7月当時は、
坤櫓の内部、
12〜13時の間だけ公開されてました。
訪れた時間が、
とてもラッキー✌️✌️でした!
2023年は坤櫓も、
巽櫓も公開されるみたいです!
ただし、
坤櫓 (ひつじさる やぐら) | 5・9・11・3月 |
巽櫓 (たつみ やぐら) | 4・10月 |
のみの公開の様です!
詳しくは上のサイトで!
しかし職員さん、
「すぐ開けるんで少しの間、
木陰に入ってて待っててくださいね〜」
と、ひなたは暑かったので優しいお言葉。
🤡「坤櫓の内部の写真はないの?」
撮影してもOKだったのかもしれないけど、
他の人が撮ってなかったから、
空気的に撮れなかった😅
🤡「そうか〜⤵️」
坤櫓の内部、
古い木の質感がとても良かった。
一階天井にとても太い、
そのまま木の柱がありました。
明石の町の成り立ちを書いたパネルや、
明石城に昔乗っていたという、
古い屋根瓦も展示されてたよ。
🤡「直に見たいな〜。
でもコロナが収まらないと、
見れないんだろうな〜」
坤櫓内部から見た巽櫓と、
石垣の反り。
🤡「とても良いね!」
さらに内部には、
江戸時代の明石の町の模型などがあり、
先程の職員さん(大豊さんという方でした。
お話がとても上手)が、
先程明治時代の明石に、
鉄道の土地を確保した話など、
明石の町の成り立ちを、
教えてくれました。
その後、明石城を降り、
前日の睡眠時間も少なかったので、
涼しいカフェでコーヒーを飲む事にしました。
🤡「暑い時期に、
熱いコーヒー飲んだんかい」
コーヒーシェイクがあったから、
それにすれば良かったな😅
ちなみにこの後は、
明石駅から新快速に乗り、
大阪府堺市の仁徳天皇陵に行きました。
まとめ
- 明石城は小笠原忠政により1619年に建てられた。尼崎城と共に姫路ー大阪間の防御強化のため。町割りは宮本武蔵が立てた。
- 明石城に天守閣がないのは色々説がある。1、中津城から天守を移設する予定だった。2、幕府にビビって作らなかった。大砲の的になるから敢えて天守閣をつくらなかった。
- 2019年は江戸時代から現存する3重の櫓・坤櫓の内部が公開されてたが、現在はコロナウィルスのため公開されてない。
天守閣を作らなかった理由、
どれにせよ、
高いお金出してまで、
天守閣を作る必要がなかった。
という事だと思うんだけどね。
🤡「天守閣がなくても、
明石城は十分立派さ!」
その通り。
姫路城より広い明石城、
櫓は2021年6月現在、
公開されてませんが、
明石公園内は無料で自由に歩けるんで、
散歩・ウォーキングしてみてください!
それでは今日はこの辺で失礼します!
🤡「さようなら〜!」
最後まで読んでくれて、
ありがとうございます!
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