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明石城の坤櫓は公開されてる?2023年は?天守閣がない理由は?誰の城?

2024年8月6日

こんにちは〜!

カワタツ( @TKkidd_mbht )です!

🤡「どーも!

デルピエロです!」

この記事で、

明石城のアクセスや駐車場について、

書いたんだけど、

🤡「今日は明石城の城内に関しての、

記事だよね」

この明石城の写真を見て欲しいんだけど、

他の城にはある物がないよね?

🤡「ん?

普通なら真ん中辺りに、

天守閣がドーンと建てられてるよね」

そう、じゃあ、

明石城にはなぜ天守閣がないのか?

分かる?

🤡「ん?

壊されちゃったとか?」

その答えをこの記事で説明していきます!

さらに、

明石城の城主は誰?

坤櫓は公開されてる?

という事も説明します〜!

明石城の城主は誰?歴史は?

🤡「ところで明石城、

城主は誰だったの?

有名な武将?

明石城は今から400年前の、

元和5年(1619年)に、

初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)が、

外様大名の多い西国への備えとして、

徳川幕府2代将軍秀忠から命じられ、

築城されました。

https://www.akashijo.jp

🤡「小笠原忠政って人が建てたのか。

西国への備えとして、

明石城は建てられたんだね」

徳川家康は島津や毛利など、

西国の大大名を抑えるために、

まず姫路城を作った。

しかし、

「姫路と大阪の間に、

あと2つ位大きな城を作っておかないと、

大坂への防備として安心できない」

と考え、

明石と尼崎の2ヶ所に、

城が作られたそうです。

🤡「確かに薩摩や長州から、

大坂へ攻め込むまで、

姫路・明石・尼崎と、

3つも大きな城を、

落とさないといけないのなら、

計画の段階で攻める気がなくなる、

固い防御なのかも」

明石藩は小笠原忠政に始まり、

戸田松平家、大久保家、

藤井松平家、

本多家と支配大名が入れ替わり、

1682年に越前大野の松平直明が入り、

そのまま廃藩置県まで続いたそうです。

🤡「松平直明の子孫が、

200年位の間ずっと、

明石藩を継いだんだな」

江戸時代から明治時代になり、

四民平等や廃刀令の影響で、

明石の街に武士がいなくなりました。

🤡「仕事がないから、

大阪とか大きな街に行ったのかな?」

あるいは田舎に引っ込んで、

農業を始めたとか?

それはともかく明石には、

誰も住んでない武家屋敷が、

たくさん出来た。

🤡「街が空洞化したんだな」

しかし、これは、

明治時代の明石市にとって、

好都合でした。

🤡「何で?」

「武家屋敷があった土地に

鉄道を通せる!」

となったみたい。

🤡「なるほど。

街の真ん中に鉄道を通すのって、

土地の確保が難しいもんな。

ましてや明石の様な港町は、

平地が少ない」

という訳で、

武家屋敷の跡に鉄道が通ったそうです。

また、

明石の町割りは宮本武蔵がやった

という話も、

あるみたいですね。

🤡「宮本武蔵?

剣豪なのに町割り設計もできるの?」

良く分からないんだけど、

姫路の本多忠政が、

小笠原忠真の義父にあたり、

武蔵を紹介してもらったみたいだよ。

🤡「コネか〜」

明石城に天守閣がない理由は?

明石城には天守閣がない。左の櫓は坤櫓、右は巽櫓。

🤡「さて、そろそろ、

明石城に天守閣がない理由を、

教えてもらって良いかな?」

あくまで一説なんだけど、

1.中津城(大分県中津市)から、

天守を移築する計画があった。

2.築城に神経を尖らせる幕府に配慮した。

3.大砲の技術が進み、

標的となる建物を建てる必要がなかった

https://www.sankei.com/article/20180317-5AXRT7XTJNJCDH6UVDRCW6TPMI/

🤡「2と3が最もに思えるな〜」

2だけど、

幕府は少しでも幕府に反逆する藩があれば、

取り潰してた。

それで城を建てても、

天守閣を建てない城が多いんだよね。

🤡「3も最もだよな。

明石城は海がすぐ近くだから、

船から大砲で城を狙われる事を、

想定してたんじゃないかな?」

引用以降は、

あくまで僕の想像です😅

2023年は?明石城の坤櫓は公開されてる?江戸時代の櫓が現存?

さて明石城の、

坤櫓(ひつじさるやぐら)まで、

登って行く所を書きたいと思います。

明石城を正面から見て左側にある、

坤櫓(ひつじさるやぐら)の左側から、

城の上の方へ登る事ができます。

🤡「入り口はここだけ?」

いや、

この写真の明石城の、

真ん中辺りにも、

登り降りできる階段があるし、

右側の櫓・巽(たつみ)櫓の右側からも、

明石城の上の方へ、

登り降りする事ができるよ。

🤡「階段が色々な所にあるんだな」

これは先程の明石城を正面から見て、

左側、西側の階段。

🤡「割と緩やかそう」

櫓のある位置まで登ってきました。

ちなみにこの時、

2019年7月で、

とても暑かった😅

🤡「夏真っ盛りか。

綺麗に写真が撮れてるもんなあ」

東側の櫓、巽櫓(たつみやぐら)。

🤡「明石の街が見下ろせる感じか」

瀬戸内海も見えるよ!

明石海峡大橋も見えます!

海抜20mの位置にあり、

この位置から瀬戸内海を通る船を

監視してたんじゃないですかね?🤔

🤡「これなら西国街道(山陽道)も、

監視できたよね」

こちらは逆サイドの坤櫓。

明石城坤櫓と巽櫓、

全国に12基しかない、

現存する3重の櫓

らしいです。

🤡「という事は、

どちらも江戸時代のものか!

中には入れないの?」

最初、「入れないのかな?」

と思って、

他の場所を一通り見て周って、

「もう見る所はないかな?」

と思って、

「明石駅の方へ降りよう」

と思ったんだけど、

🤡「けど?」

その時、明石城の職員さんが、

下から登ってきて、

「今から坤櫓開けますよ〜。

中見れますよ〜!」

と😃✨

🤡「おお!

やったね!

しかし、坤櫓は、

常に公開してるわけじゃないんだね?」

2019年7月当時は、

坤櫓の内部、

12〜13時の間だけ公開されてました。

訪れた時間が、

とてもラッキー✌️✌️でした!

2023年は坤櫓も、

巽櫓も公開されるみたいです!

ただし、

坤櫓
(ひつじさる
やぐら)
5・9・11・3月
巽櫓
(たつみ
やぐら)
4・10月

のみの公開の様です!

詳しくは上のサイトで!

坤櫓の鉄砲狭間

しかし職員さん、

「すぐ開けるんで少しの間、

木陰に入ってて待っててくださいね〜」

と、ひなたは暑かったので優しいお言葉。

🤡「坤櫓の内部の写真はないの?」

撮影してもOKだったのかもしれないけど、

他の人が撮ってなかったから、

空気的に撮れなかった😅

🤡「そうか〜⤵️」

坤櫓の内部、

古い木の質感がとても良かった。

一階天井にとても太い、

そのまま木の柱がありました。

明石の町の成り立ちを書いたパネルや、

明石城に昔乗っていたという、

古い屋根瓦も展示されてたよ。

🤡「直に見たいな〜。

でもコロナが収まらないと、

見れないんだろうな〜」

坤櫓内部から見た巽櫓と、

石垣の反り。

🤡「とても良いね!」

さらに内部には、

江戸時代の明石の町の模型などがあり、

先程の職員さん(大豊さんという方でした。

お話がとても上手)が、

先程明治時代の明石に、

鉄道の土地を確保した話など、

明石の町の成り立ちを、

教えてくれました。

その後、明石城を降り、

前日の睡眠時間も少なかったので、

涼しいカフェでコーヒーを飲む事にしました。

🤡「暑い時期に、

熱いコーヒー飲んだんかい」

コーヒーシェイクがあったから、

それにすれば良かったな😅

ちなみにこの後は、

明石駅から新快速に乗り、

大阪府堺市の仁徳天皇陵に行きました。

まとめ

  • 明石城は小笠原忠政により1619年に建てられた。尼崎城と共に姫路ー大阪間の防御強化のため。町割りは宮本武蔵が立てた。
  • 明石城に天守閣がないのは色々説がある。1、中津城から天守を移設する予定だった。2、幕府にビビって作らなかった。大砲の的になるから敢えて天守閣をつくらなかった。
  • 2019年は江戸時代から現存する3重の櫓・坤櫓の内部が公開されてたが、現在はコロナウィルスのため公開されてない。

天守閣を作らなかった理由、

どれにせよ、

高いお金出してまで、

天守閣を作る必要がなかった。

という事だと思うんだけどね。

🤡「天守閣がなくても、

明石城は十分立派さ!」

その通り。

姫路城より広い明石城、

櫓は2021年6月現在、

公開されてませんが、

明石公園内は無料で自由に歩けるんで、

散歩・ウォーキングしてみてください!

それでは今日はこの辺で失礼します!

🤡「さようなら〜!」

最後まで読んでくれて、

ありがとうございます!

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