【旧山陽道の遠回りルート?】幕末に作られた旧山陽道の新往来とは?
こんにちは〜!
カワタツ( @TKkidd_mbht )です!
🤡「どーも!デルピエロです!」
今日は、
旧山陽道の新往来
についての記事です!
🤡「旧山陽道は分かるけど、
新往来?
聞いた事ないな」
旧山陽道の遠回りルートなんだが、
自転車で近所を走ってると見つけたんだ。
🤡「旅行ブログのネタになるかは、
わからないけど、
岡山の歴史についての記事だね」
岡山県外の人でも、
江戸時代の街道・旧山陽道(西国街道)
について興味がある人、
幕末の岡山の姿に興味がある人、
岡山市内のサイクリングルートを、
探してる人には面白いと思います!
旧山陽道の新往来が設置された理由は?
🤡「さて、その新往来とやら、
どの辺りで見つけたのかな?」
家から近い旧山陽道の藤井宿の辺りを、
自転車で走ってたんだけど、
素戔嗚神社(すさのおじんじゃ)
で、こんな立て札を見つけた。
🤡「素戔嗚ってスサノオノミコトの事?」
だろうけど、
素戔嗚神社って、
結構色々な所にあるみたい。
岡山市内でも中区と南区にもある。
🤡「格の高い神社って訳ではないんだね」
とりあえず漢字が難しい割に、
変換は簡単で良かった😅
さて旧山陽道の新往来に話を戻そう。
🤡「『話を戻そう』って、
ぺこぱの松陰寺みたいな言い方だね」
話の腰を折るなあ。
話を戻そう。
上の写真の立て札に、
旧山陽道新往来について書いてある訳だが、
🤡「おっ、
お得意の説明丸写し引用だな」
幕末ペリーの浦賀来航、
尊王攘夷などで諸国の志士、
浪士などの往来が激しくなり、
備前藩でも岡山城の警戒を強め、
山陽道を通行する人々に、
神経をとがらせていた。
折しも長州藩の下関砲撃事件を発端に、
幕府は元治元年(1864年)
長州征伐を断行した。
上の写真の立て札
🤡「旧山陽道は長州藩の浪士達が、
通る道だったんだね」
治安が悪くなってたんだろうなあ。
🤡「喧嘩とか良くあったのかもね」
長州征伐で大軍隊が旧山陽道を通るから、
それで道が塞がるため、
遠回りをさせられてたのかも。
続けていこう。
備前藩では長州征伐に赴く諸般の藩士が、
岡山城下を通過することを回避するため、
一時的に山陽道の岡山城下の通過をやめ、
その北方を迂回させた。
上の写真は、
素戔嗚神社の横から、
北に伸びてる道。
🤡「この道から新往来が始まったわけだな。
山道の様だが」
素戔嗚神社→宿奥までの道、
もう無いっぽいんだよね。
🤡「草が生えて無くなったか」
藩は藤井宿から北に山陽道をつけかえ、
宿奥、奥矢津、牟佐(むさ)、
旭川渡りの新往来を建設し、
元治元年(1864年)7月25日より、
諸大名をはじめ、
全ての山陽道通行者に、
新往来を通行させる様にした。
🤡「かなりの遠回りだね。
旅人は面倒だっただろうなあ」
大名まで遠回りさせられてたのが、
ビックリ😲
🤡「備前藩(岡山藩)って、
他の大名に対して、
そんなに力があるの?」
多分、幕府から許可を得たんだろうなあ。
備前藩「旧山陽道に、
岡山城下を通らない様に、
遠回りルートを作りたいんですが、
良いですか?」
幕府「良いよ!」
みたいな感じで。
🤡「そんなに軽く許可は
出なかった気もするけど、
幕府がOKしたなら、
長州や広島などの大藩も、
文句は言えなかったかな?」
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